『[図解] 電車通勤の作法』快適な通勤で幸せな生活を
先日、外国人が撮ったという日本の通勤電車の写真をネット上で見かけた。そこにはドアに顔を押し付けられて、悲壮感の漂う日本人の姿が映し出されていた。そう、まるでゾンビのような日本人の姿が……。
毎朝こんな状態で通勤していたら、仕事へ行く前に疲れきってしまうのではないだろうか。私は満員電車が苦手なので、ある時期から通勤時間を早めて、座れないまでも立って本を読んで通勤できる混み具合の電車に乗るようにしている。
しかし飲み会の翌日などは、はやく起きられず、満員電車に乗らなければならない日もある。そんなとき、満員電車で悲惨な状態になるのをさけ、通勤を少しでも快適に過ごすために、参考になるのが『電車通勤の作法』である。著者が提唱する電車通勤の作法は、そこまでやる必要ある?って思ってしまうような、ちょっとずれていて笑えるものも多い。
しかしみんながこの作法にのっとって、通勤をしたら快適になることは間違いない。ひいてはそれが働くすべて人の生活を、幸せにするかもしれない。ってこれはちょっと言いすぎかもしれない。
通勤電車の混雑は高度経済成長と共に始まり、昭和30年代には混雑率が300%以上(!)を記録していたそうである。年々、減少傾向にはあるものの、主要区間の平均混雑率は164%とまだまだ高い。最も混雑しているのは総武線の錦糸町→両国間で、7時34分〜8時34分が混雑率201%である。(国土交通省発表の鉄道混雑率データ)
もう10年以上前にはなるが、専門学校時代、私は総武線を利用しており、この区間の混雑ぶりはリアルに体験している。この区間は乗ったが最後、あとは流れに身をまかせるしかなかった。この「流れに身を任せる」というのが、快適に通勤電車を過ごす上で重要なんだそうだ。通勤電車の作法は、武道の精神である「柔よく剛を制する」のが基本だという。といわれても、いまいちよくわからないが、かたくなに自分の場所を動かない人がいるが、それではダメということだろう。
“電車通勤の第一歩は車両選びから始まる。”
などと言われると「武士道」のように、「電車道」というものがあるのか?と錯覚してしまう。車両選びなどは深く考えず、同じ時間に、同じ車両に乗るという人が多いと思う。ただそれではダメなのだと著者は言う。
“電車通勤をする方にとって、乗り込む車両は、第二の別宅とまではいわないまでも、人生の結構な時間を費やす空間です。もっと短期的な視点でいえば、そこですごした時間が、その日の気力に影響する、重要な場所でもあります。”
そこまで熱くならなくても……。と思ってしまうが、読んでいくと理にかなっている部分も多かったので紹介する。
車両選びのポイントは3つあるという。安全性と快適性、そして即時性だ。安全性と即時性というのはなんとなく理解できる。ただ快適性というのは考えたこともなかった。安全性はあまり説明の必要がないだろう。ただ安全な印象の電車でも、事故により1年で317人が亡くなっているので、意識はしておいた方がいい。
快適性はエアコン事情を把握することが重要だ。夏場、冬場ともにベストポジションはエアコンの吹き出し口近く。一般的には車両の真ん中あたりにあるそうだ。さらに目的地までの停車駅で、ドアの開閉が少ない側がよりベターだという。そこまでするか!という感じがしなくもないが、言われてみればそちらのほうがよさそうな気がする。
また冬場では車両連結部付近や、運転台付きの車両を挟んだ電車は空気の流れが少ないので温かいそうだ。さらに電車の進む方向と太陽の位置を把握しておくのも有効だという。夏場は太陽に直接当たらない側、冬場は当たる側と、ちょっとしとだが意識するだけでも快適さはずいぶん変わりそうだ。
即時性というのは、どの車両の、どのドアから降りれば改札口に一番近いか、また乗り換えが素早く行えるのかということである。これを意識して電車に乗ってる人は多いと思う。そう考えている人が多いから、あえてその車両は避けるというのもありだろう。わたしはいつもそうしている。
『キレる女懲りない男』新刊超速レビュー
男女の脳はつくりが違うとは聞いたことがあったけれど、これほどまでに違うものだとは思わなかった。そもそも男女では見えている景色が違うらしい。女性には見えて、男性には見えない色というものが存在するそうだ。そんなことは考えてみたこともなかった。とすると異性というのは、似て非なる生き物である。多くの大人たちはそのことを理解せず、異性の脳を自分の脳と同じものとして扱おうとするから、ストレスを感じてしまう。著者いわくそれは
“オーブントースターにふっくらご飯を炊くことを期待してはがっかりしている”
ように見えるそうだ。その性能の違いから男女のすれ違いはよく起こる。オーブントースターにはオーブントースターの使い方があるように、男性脳には男性脳の、女性脳には女性脳の使い方がある。その違いを理解することで、異性とのコミュニケーションがより円滑になり、お互いにハッピーになれるのではないだろうか。思ってもみなかったことが異性にとっては地雷だったりする。その地雷を避けるためにもこの本はとても有効である。
女性が料理を準備していて、その間ずっとテレビを見ている男性。そろそろ出来上がりそうだという頃合いになっても、男性はまだテレビを見ている。そして女性から「どうしてそうなの?」と怒られる。こういった風景は容易に想像がつく。私にも身に覚えがある。出来上がりそうだと思って、テーブルを片づけて、取り皿を用意する。そういったことが男性にはできない。なぜなら察して先んじてフォローをする。そういった性能が男性脳には搭載されてないからだ。女性にはまずそのことを理解してもらいたい。決して思いやりがないから、動いていないのではない。脳にその機能がないので、言われないと思い至らないだけである。
こう言われても、できる男もいるでしょ?そんなのは言い訳にしかすぎない。という女性がいるだろう。しかし、これらの能力は後天的に身につけたもので、一般の男性には搭載されてないのが現実だ。いうなればオプションみたいなものなのだ。ではどうしたらいいか?女性から「○○は、あなたにお願いするわね。よろしくね。」といえば、男性がやってくれるようになるかもしれない。男というのは計画的に任務を遂行する能力には優れているから、それが自分の任務となれば確実にやってくれるはずだ。
上記のシチュエーションで、「言ってくれればやったのに」という言葉を、彼女や妻に発したことのある男性はいないだろうか?もし言ったことがあるのならば、この本を読んで悔い改めたほうがいいだろう。そして二度とこの言葉は使わないことをオススメする。この言葉は「夫のムカつく一言」というアンケートで堂々の2位にランキングされている。男にとってはフォローのつもりで言っているのだけど、女性からすると「察することを放棄することば」に聞こえ、言われると想像以上に傷つくそうだ。
女性にとってはこれから起こるべきことを察し、先んじてフォローしてくれるということが、自分をいつも大切に思ってくれているという証になるのだ。だからレディーファーストの精神は理にかなっているし、女性から喜ばれる。モテる男はこういったことをさり気なくやるんだよね。一般の男性にはこの資質は備わってないので、こういうときは「言ってくれればやったのに」ではなく、「気がつかなくてごめん」というべきである。これだけで家庭円満になるかもしれない。
このように、男女の脳の性差とその対処法がこの本には載っている。女性はなぜ突然キレるのかとか、女性に過去の浮気を告白してはいけないだとか、男女間の地雷の回避方法がわかり、個人的にも多いに参考になった。(いままでいかに地雷をどっかんどっかん踏んできたかを大いに気づかされた)
また男性はなぜ目の前のものを見つけられないのか?とか、女性が男性の部下にいってはいけない言葉など、女性からしても、なんで男ってこうなの?といった疑問が解消されること間違いなしである。目から鱗の話もたくさんあるので、ぜひ読んでみてほしい。異性の脳の性能を知れば、きっといまよりも異性のことが愛おしく思えるはずだ。
大正時代のおしゃれ女子『モダンガール大図鑑』
大正という時代にはとても浪漫を感じる。日本の古き良き時代といったときに想像するのがこの時代だ。エロ・グロ・ナンセンスといった大衆文化が花開き、ファッションは和洋折衷で独自のスタイルが形成されていた。なかでも『はいからさんが通る』に出てきたような袴にブーツというスタイルはいま見ても魅力的である。また大正時代のキモノは柄が大胆で斬新なものが多い。アール・デコ調のものなどもあり、現代でも通用するような素晴らしいデザインのものが多くある。アンティークのキモノはこの時代のものが、とても人気があるそうだが、デザインをみているとそれもうなずける。
私は東京駅の駅舎が大正時代の姿に復元されたことをきっかけに、大正時代ブームがくればいいのに!と思っている。昔から大正デモクラシーという言葉の響きが好きで、灯台下暗しというときには、つい灯台モトクラシーと、大正デモクラシーのイントネーションでいってしまう癖があるのだ。と話が脱線した。とにかく、大正時代にはなにか心惹かれるものがある。そんな私が、見つけて心踊った本が今日紹介する『モダンガール大図鑑』である。
“キュートで可愛くて、おしゃれでモダン。セクシーでちょっとキッチュ!”という帯の文言の通り、大正末~昭和初期に存在したおしゃれ女子である「モダンガール」の生態や風俗を、当時の写真や、絵葉書などを元に紹介した本である。この本をきっかけに少しでも大正浪漫に興味を持ってもらえたらこんなに嬉しいことはない。
「モダンガール」と言われてもピンと来ない人も多いだろう。「モダンガール」というのは大正末期から昭和初期にかけて存在した、近代的で新しいタイプの女性のことである。男性から自立し、職業について、自由を謳歌した女性たちのことだ。キャリアウーマンのさきがけのようなものかもしれない。
和服から洋服に着替え、髪を短く刈り、ハイヒールを履いて銀座などに繰り出し、カフェ、シネマ、デパートといった文化や娯楽を享受した。彼女たちのパートナーには、洋装に身を包むモダンボーイがいて、「モボ・モガ」と総称されたりもする。「モボ・モガ」ともに世間からは軽薄な印象を持たれており、当時は冷ややかな目で見られていたようだ。
「モダンガール」の特長といった後頭部を青く剃り上げる断髪の髪型だろう。この本の表紙に描かれている女性のような髪型である。「毛断嬢」すなわち「モダンガール」という表記もみられる。その上にクロッシェやベレー帽など帽子をかぶるのが当時のスタイルだったようだ。
『少女系きのこ図鑑』新刊超速レビュー
どうやら世の中ではきのこブームがおきているらしい。水玉模様のきのこグッズなどに女性はかわいい!の声をあげ、なめこを育てるゲームに熱中し、のキャラクターグッズをたくさんの人が買い求めている。また、きのこの山と、たけのこの里による争いの話は鉄板ネタになっている。(『出ない順 試験に出ない英単語』のレビューでもこの話題が出ていた。)
自分の周りにも、きのこ好きの女性は多い。その人たちにこんな本が出たよとツイッターでつぶやいたら、とても反応が良かったので、その本を今日は紹介したい。その名も『少女系きのこ図鑑』。
"かわいくて、ためになる世界初の「きのこの図鑑」"という帯の言葉の通り、この本にはきのこのイラストとともに、きのこを擬人化した、かわいらしい少女が描かれている。イラストを描いているのは玉木えみ。東京工芸大学 芸術学部 マンガ科を卒業し、卒業制作で大好きな、きのこのイラスト化を試み、それが元となりこの本が生まれたようだ。
きのこのイラスト化といっても、萌え系の擬人化イラストを想像してもらっては困る。きのこからイマジネーションされ、きのこの特徴を捉えた「きのこ少女」が、きのことともに描かれているのだ。これがとにかくかわいい!ふわっとした色使いと、繊細なタッチがとても魅力的である。

きのこのイラストは色や形がとてもしっかり描き込まれていて、その点ではきちんとした図鑑としても使える。きのこの名称(和名、学名)、所属、食毒についてはもちろんのこと、きのこの発生時期やサイズ、きのこの性質もきちんと紹介されている。ものによってはきのこが登場する文学作品からの引用文なども掲載されているのだ。
きのこが登場する文学作品からの引用ってなんだ?と思ったら、この本の監修をしている飯沢耕太郎という人の肩書きが「きのこ文学研究家」というものだった。きのこ文学なるジャンルがあるのか……。それはそれでとても気になるジャンルである。
ひとつきのこ文学から参照してみることにする。
“私は食べに食べた。トリュフは、凍った沼の風味、春の回帰を待つ縮んだ木の芽の味、冷たい土の中できしんでいる皮に包まれた若芽のあじ、そして将来の収穫に向けての忍耐づよい力を備えていた。”
マリー・ダリュセック「めす豚ものがたり」(高頭麻子訳、河出書房新社)
これはセイヨウシュウロに付属していた文章だ。セイヨウシュウロというのは高級食材として有名なトリュフのこと。子供味覚の自分はトリュフの美味しさがイマイチよくわからないのだけど、きのこ文学ではこのように表現されている。この文章が載っている作品のタイトルもすごい。「めす豚ものがたり」って……。なんだかこれも気になるではないか。読んでみるかな。

おすすめのきのこ少女をいくつか紹介しよう。死の天使ドクツルタケ(上記画像)、タマゴタケの色使い。チシオタケのヤンデレな雰囲気、ハナオチバタケの可憐なイメージ、クリタケとニガグリタケの表裏一体なイメージなど、とにかく魅力的なきのこ少女がいっぱいである。ぜひ本著を手に取りイラストを堪能して欲しい。個人的にはセイヨウシュウロがおすすめなのでぜひご覧いただきたい。イラストが気に入りすぎて、著者から許諾をいただいて、ツイッターのアイコンとして使わせてもらうことにしたのは内緒である。
先月の朝会で新井文月が紹介していた『きのこ絵』も一緒にどうぞ!
『芸術家たちの臨終図鑑』死から読み解く西洋絵画
私には西洋美術の素養がまったくない。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、マネ、モネ、ルノワール、シャガール、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ……。どれも名前くらいは聞いたことがあるが、彼らの代表作は?と聞かれて即答できるものはほとんどない。さすがにダ・ヴィンチのモナリザくらいは知っているが、ルノワールっていいよね。と言われたら、あぁ、あの喫茶店いいね。といってしまいかねない。それくらいの美術オンチなのである。
とはいっても、アートが嫌いなわけではないのだ。アンディ・ウォーホールのシルクスクリーン(ポップアート)や、バンクシーのステンシルアート、KAWSや奈良美智さんのイラスト、エッシャーのだまし絵など、現代美術やグラフィティといったものには興味があり、ダミアン・ハーストの個展やエッシャーの個展を見にいったり、横浜トリエンナーレにも足を運んでいる。(これはなんのアピールだ?)
ただ西洋美術の個展というものにはいったことがほとんどない。西洋美術に関しては正直よくわからないといった印象が強いのだ。モナリザのよさもよくわからない。このままではいけないと思いたち書店の芸術コーナーに足を運んだ。そこで目を引いたのがこの本である。 巨匠60人のメメント・モリ(死を想え!)という帯に惹かれてつい手にとってしまった。なぜ西洋美術を学ぼうとして、この本を手にとるのだ!という感じがしなくもないが、惹かれてしまったのだから仕方がない。
この本は作家がいかに生き、どう死んでいったのかを書いたエピソードと、その作家の描いた作品がひとつ紹介されているといった構成になっている。紹介されている作品の中には美術の教科書で目にしたことのあるような有名なものもいくつかはあるが、ほとんどが初めて目にしたものだったので新鮮だった。
著者は学生時代に講師から「芸術は長く、人生は短い」という言葉の意味を聞かれ、「人の人生ははかなく短いが、芸術は後世まで残る」と答えて失笑を買ったという。これに対する恨み節?からこの本は始まる。 この言葉の意味は「(芸)術をなすには、人生は短すぎる」ということだと講師からは教えられたそうだ。著者はこれに疑問を抱く。「術(アルス)をなすには、人生は短すぎる」といったときのアルスには技術という意味もふくまれている。「技術は人の生を越えて、後々まで残る」というと、どうしても違和感があるのだ。なぜなら技術というものは常に革新(更新)されていくものだからだ。
また現代人にとっては、サンプリングやリミックスが当たり前になっているので、アートを成すのに人生が短いとは考えづらい。ルネサンスの時代にはそういった生を飛び越えるような「天才」が実際に求められていたが、現代人にとってこの言葉は言いわけにすぎないという。
また著者は現代にはびこっている「作品中心主義」というものにも疑問を呈す。作者がどのような状態のときに描かれたものなのか?といった背景を一切問わず、作品だけが語るものを鑑賞するという態度が「作品中心主義」である。その一方でゴッホやゴーギャン、レンブラントといった一部の画家については、その悲惨な背景が喧伝されて、それが絵の評価にもつながっている。
これでは不公平だということで、作品中心主義ではない、新しい視点で作品を鑑賞する方法として、作家の人生の、特に死の部分にフォーカスして絵画を鑑賞するという試みがこの本では行われている。